こんにちは中里桃子です。このページをご覧いただき、ありがとうございます。
累計受講者数2500名、ご支援した法人様は60社。
著書『オンラインサロンのつくりかた』『オンラインサロン超活用法』他
このプロフィールにたどり着いたということは、あなたはきっと
- コミュニティをつくる
- 仲間をつくって楽しく働く
ということに関心がおありなのだと思います。
私のコンテンツを買ってくれる人やメルマガを読んでいる人は、きっと、もっと人生をよくしたいとたくさん頑張ってきた人だと思います。
コミュニティを作る具体的な方法自体は私の既刊の本やコンテンツなどをご覧いただけたらと思いますが、このページでは
30歳まで友達ゼロで、しかも借金ありの時給816円生活で5年連続彼氏にもフラれ続けてきたOLが
友達や仲間に囲まれて独立し、婚活ジプシーから理想の男性と1ヶ月でスピード結婚して子育ても仕事も両立をするまで
・・・っというストーリーを通して、どん底だった私の人生を変えたのは一体なんだったのか。
人生を変えるキッカケになったのか?ということについてお伝えできたらと思うのです。
でも、忙しい人が多いので結論からお伝えしますね。
それは
「自分と人を信じること」
でした。
言葉にするとなんともチープなものになりますが。笑
でも、このストーリーをお読みいただくことで、少しでもこの一見チープな言葉の重要性を感じていただけたらと思って・・・恥を忍んで私のストーリーをご紹介します。
ただ、この文章を読んだからといって、私の生き方が最上でこれを真似しろ!とか、この生き方をあなたにもして欲しいとは全く思っていません。
幸せは人それぞれです。
これに関しては説得も売り込みもしませんので、ご安心ください。
目次
現在やっていること
現在、中里桃子は作家(きゃー先に書いちゃった!)・コミュニティ運営のコンサルタントとして活動しています。
専門分野はコミュニティの研究です。
これまでの研究成果を本にしており、著書は『人と人とのつながりを財産に変える オンラインサロンのつくりかた』や『自分の居場所を作る働き方』などを含め5冊あります。
著書一覧はこちら
仕事は、コミュニティをつくりたい個人の方に作り方を教え、独立以来2500人くらいの受講生がいます。また、会員制のビジネスをつくりたい法人からの依頼を受けてご支援した会社は60社ほど。
プライベートでは、大企業に勤める夫1人と1歳になったばかりの娘が1人。子育てに奮闘中です。
今の私のライフスタイルは、早起きの娘に起こされて目覚めます。夫を見送り、娘を保育園に送り出したあとは、読書と執筆に集中しています。
作家気分を味わうために、近くの温泉施設(ここは神奈川県鶴巻温泉駅にある、10億円の赤字からV字回復したストーリーで有名な「陣屋」です)にデイユースで籠もったりしています。このプロフィールも、近くのホテルで書いています。
今日という1日をどのように過ごすのかを自由気ままに決められるライフスタイルで、お金に関しても欲しいものを買うために値段を見ることはほとんどなくなりました。
ですが、こうした生活が最初からできたわけではありません。独立して3年くらいは毎月残高とにらめっこする生活でした。1日16時間くらい働いても、毎月残るお金がほとんどない、、、そんな生活でした。
今では複数の出版をしていて
- コミュニティづくりの天才
- チームづくりのプロ
と言ってくれる人もいるのですが、最初から私がそういう人だったかというと全くそんなことはありませんでした。
むしろ30歳になるまで友達らしい友達もおらず、会社でもトラブルメイカーで毎年転職しており、34歳で独立するまで6回も転職。
最後の会社もバイト同然で入社して時給816円でした。
(30歳で一人暮らしで都内に住んでいたのに、時給816円って相当やばいと思います)
元カレからも金融機関からも借金がありましたし、さらに薄給の会社からも何度かクビになりかけていました。
そのような状態だった私がどのようにして、自分と他者を信頼することを通して現在のような状況になったのかを、ご紹介してゆきたいと思います。
【幼少期〜高校卒業まで】世界のはしっこで「ヤンキーか公務員と結婚するしかない」と絶望した頃
幼少期は、400年続く由緒ある家の初孫・長女で生まれてみんなに可愛がられて育ちました。
自分が世界の中心だと思って3歳まで過ごしてきたのですが、幼稚園に入ってすぐ「子供はみんな世界の中心として育ってきた」という事実に直面します。
ぼーっとしてたらあっという間に端っこに追いやられてしまう。そして、たまたま幼稚園バスで隣になったあやちゃんという女の子にいじめられます。
「あれっ私が中心じゃなかったんだ、私なんて」と思うようになり、他の子供が怖くて小学生になっても友達を作ることができませんでした。
そして、これが私の誤った人間関係の原体験かもしれませんが、小学校3年生の時、学校ヒエラルキーで上位者だった「かなこちゃん」という女の子と友達になろうと近づいたんです。やっぱり中心勢力に近寄っていくほうが人生幸せだと思ったんですよね。笑
そしたら、
「友達になりたかったらビーズの○○持ってきて!」
なんと金品を要求されたのです。お金を持っていなかったので、その日の夜に私は無邪気にねだりました。「おかあさん、かなこちゃんがビーズの○○あげたらお友達になってくれるから、買って!」
しかし「えっ・・・」母の怪訝な顔と微妙な沈黙に「これはちょっと違うかもしれない」と思いました。母にねだって一回はビーズを買ってもらえたのでプレゼントしたものの、母に2度目に貢ぎ物をねだることができず、その「友達関係」は終了しました。
この経験から、友達というのはメリットを与えないと作ることができないそんな法則が刻み込まれました。
【大学時代】ロールモデルを探して20ものアルバイトをする〜留年
大学時代は、そんな幼少期を振り切りたいがために同級生が誰も進学しない大学に進みました。
九州から、京都の同志社大学へ進学。知り合いが誰もいないところで大学デビューを目論みました。
ダイエットして多少見た目に自信がついたこともあり、とにかく飲み会ではお酒を飲んでテンションを上げる、と言う戦法で友達を増やしました。(盛り上げ役と言う価値を提供することしか思いつかず・・)
元々そういう軽いノリの付き合いは苦手だったのですが、無理をして飲み歩いて1ヶ月ほど家に帰らない生活を続けた後に体調を崩します。
体調を崩したところで一旦、無理な友達作りは中断し、子供の頃からのテーマであった自由で仕事を楽しんでいる大人になるための研究を始めます。
私が田舎を飛び出したのは自由に、自分らしく生きる人生を取り戻すためです。4年間をボーっと遊んでいる暇はありません。
まずはリサーチだ!私はやる気満々でした。ちょっとでも面白そうな仕事や楽しそうに働いている店員さんを見ては「ここで働かせてください!」と面接を受けたり直談判して20近くのバイトに明け暮れてました。
そこまでして働く楽しい人生を模索したのは幼少期に、結婚で苦労した叔母達(夫の浮気や借金に、金銭面で対抗できない専業主婦でした)を見て母親から、「(好きな時に離婚できるように)一生働ける手に職をつけた女性になりなさい」と助言をされていたからでした。
生きる=働く
だった私にとって
生きる=働く=楽しく働くことができないと生きながら死ぬようなものでした。
30歳を過ぎるまで友達と肩を組んで笑い合うような経験はありませんでしたが、密かにそんな人間関係をいつか作りたいな、と憧れていました。学生生活でそれが得られなかったので、仕事でなら・・と思ったんですね。
そんな半ば強迫観念から、楽しそうに働く人のそばに近寄って行きました。でも、そこからが地獄の日々。全く仕事ができるようになりません。
なぜなら、本当にその仕事が好きな人は給料が出ている時間を過ぎても、翌日までにその仕事を改善するためにいろいろ準備をしてくる、という働きかたをしていました。
だから、毎日どんどん仕事がうまく行き、楽しくなる。いっぽうの私は、バイトの時間が終わったら、ストレス発散のために飲みに行ってはその日の仕事の失敗を全て忘れようと過ごしていました。
だから翌日もゼロスタート。もちろん、仕事はうまくいきません。
たくさんのアルバイトの現場で、「使えない奴」と認定をされて、そのストレスのため過食になり20キロくらい体重が増えました。働き過ぎて単位を落として留年した上に、太って彼氏もできずプライベートも充実せず、そして仕事(アルバイト)もうまくいかず散々な大学時代となりました。
これはのちに、どんなに輝くように働く人に近寄ってみても、本当の情熱を見つけなければ、「他人の反射光では輝けない」という学びになりました。
私もいつか、自分の心からの情熱を見つけて、自分の情熱で輝きたいと思ったのでした。
【就職から20代】お金・肩書き・権威を追いかけた迷走時代
情熱を見つけたいと思いながら見つからない就職活動はとことん難航しました。結局、半年だけ留年して中途半端な状態の学生でも採用してくれるめちゃくちゃ人手不足の営業会社に引っかかりました。そこは、自分の内向的な性格とは全く逆の”ど営業会社”でした。
新卒で入社した会社は毎日テレアポ100件200件は当たり前。4、5人でチームを組まされ、ほかの人のアポイントノルマが達成されなければ、連帯責任で夜の21時まで電話をするのも当たり前でした。
ここで、20代の私は猛烈に働きました。だってこの社会人の場で活躍できないと、悲惨な人生が待っていると思っていたからです。
その会社で称賛され、人気もので活躍している人を見ると
・トップセールス
・とにかく誰よりも長く働く
・個人の営業数字が壁に張り出される
という人たち。逆に数字が出せない、長く働けない人は霞んで見える会社だったので、私も認められるために、とにかく必死で働きました。
朝7時には出社して、終電で帰る。これをやって「平均・普通の営業」(笑)そんな生活をしていました。
1年経つ頃には仕事にのも慣れましたが、ふと先輩の話を聞いてみると、3−40人のチームを束ねるマネージャーになっても(すごく大変そうでした)年収500万いかないということを知り、ガッカリします。笑
やり甲斐と地位と肩書きとお金を手に入れるべく、転職を繰り返しました。
そこから20代は、社会人としての「自由で楽しい人生」のために、地位・名誉・権力・お金を手に入れるべく猪突猛進。
29歳になったときには、すでに転職して5社目。私はある小さな小さな会社でトップセールスになって歩合を稼いでいました。社長にも目をかけられ、平日の昼間にどこにいくにも自由、という同世代に比べて自由な立場を手に入れていました。
でも
お金は稼げても満たされない毎日
いつも何かに追い立てられているような焦燥感となぜか毎月、給料日前になると銀行口座の残高は0になりカツカツの生活。
プライベートでは、ヒモでニートなプロボクサーと同棲していました。
「世界チャンピオンになる!」と大きなことを言いながら、自宅マンション1階のセブンイレブンで3時間の早朝バイトするだけでも心が折れてメソメソするような超ナイーブな彼氏を養っていました。
財布も心もカツカツでした。
それでもやっぱりこう思っていました。
私が幸せになれないのはお金がないからだ。
もっとスキルがあれば、もっと権力があれば
でも稼げば稼ぐほど心が乾き、給料が入るとお金を使いまくりました。
人を信じられない
どんなに歩合でお金を稼いでも、その結果周りに人が集まってくれていても、会社で自分のポジションがあるのも「売り上げを上げているから」。彼氏がいるのも養ってあげているから。
人が集まるはずだと思ってお金や肩書きを使って人を集めれば集めるほど、自分のことも他人のことも信じられなくなってゆきました。
他人を信じられないから、本当は辛いことを人に相談できず、お金さえ払えば相手をしてくれるコンサルティングや起業塾、ブランド品のお店に依存するようになりました。
買っても袋からすら開けないような荷物がたくさんありました。そんな私に転機が訪れます。
人生の転機、東日本大震災。
忘れもしない2011年3月。東日本大震災がありました。
都心で働いていた私は、電車が止まってしまったので会社に泊まることにしました。何度も余震がきて、とても不安でした。会社の人たちは身を寄せ合って過ごしていました。
ただ、私はその輪の中に入ることができませんでした。
輪の中心になっていたのは売り上げを上げられず、私が「役立たずだ」と思っていた人でした。
彼女は売り上げこそあげられないものの日頃から、周りを気遣い、勇気づけ、会社の中でも周囲に癒しを与える存在でした。
その人の周りにたくさんの人が集まって、お菓子や食べ物を分け合っていました。私はその様子を少し離れたところから見ていました。
ふだん、彼らを全く無視していましたから、そこに近づくことすらできませんでした。
会社にはたくさんの人がいましたが独りきり。その晩に感じた孤独は、今も忘れられません。
私は本当にひとりぼっちでした。
そしてもう一つ衝撃的なことがありました。
大きな揺れがおさまった後、みんな一斉に、自分の大切な人たちに必死に電話をかけていたのです。
「家族につながらない!」
「恋人は大丈夫だろうか」
でも、私は当時、こんなときに誰かを思って電話をするような相手がいませんでした。そして当然ながら電話をかけてくれる人もいませんでした。
当時、恋人になりかけていたような、毎日連絡をとっていた男性はいました。でも、その人に連絡を取りたいとも思いませんでしたし、そして相手からも連絡は来ませんでした。
ぴくりともしない携帯電話
誰にもつながっていない自分を噛みしめまました。
あれ…私が追いかけていたものってなんだったんだろう。
床にシートを敷いて座り、デスクの下の綿ぼこりを集めながらふと気づいてしまったのです。
どんなにお金を持っていてもこうした災害のときになんの役にも立たない。お金では信用は買えない。そしてお金でしか買えないものはもろい。
自分が
お金や権力でしか人を動かせない
と思い込んで、その権力とお金を必死で追いかけてきたのに、結局、私はひとりぼっちでした。しかも、お金も権力も中途半端にしか手にしていない自分に愕然としました。
震災当日のオフィスで孤独と寒さに震えながら
「このままだと私、野垂れ死ぬな」
そう直感しました。
帰宅すると冷蔵庫が倒れていました。食器も割れていました。片付ける気力もなく布団に横たわったものの、その晩から眠れなくなってしまい、自分の人生が不安で仕方なくなりました。
震災後の週末を挟んで翌週、孤独に耐えられなくなった私は月曜日の朝、目黒のオフィスに出社せず勝手にリモートワークをしますと宣言し、1週間、実家の九州に帰りました。
いきなりメール1本で長期のリモートワークを強行した私に、当時の社長もクライアントも怒っていましたがそんなことも気にならないくらい、切羽詰まっていました。
私は自分勝手でした。
実家に帰って何者でもない私を受け入れてくれる両親や祖母と過ごすことでやっと、ぐっすり眠ることができました。
知らぬ間に、全身に力を入れていてガチガチに緊張していて、寝る時の歯ぎしりで奥歯が欠けていたことにも気がつかないくらいでした。
田舎の何にもない夜空を毎日眺めているうちに自分の築いてきた、お金や地位、肩書きなど、幸せな人生を生きるための丈夫な「土台」だと思っていたものが砂上の楼閣だったということに気がつき、涙が止まりませんでした。
コミュニティとの出会い
東日本大震災のあと、私はすぐにまた転職しました。
次の職場でやり直そうと考えたのです。
しかし、半年も経たないうちに抜擢され昇進したものの、やはり(笑)その会社でも浮いた存在になってしまいました。
居心地は最悪。しかし、30歳も過ぎて職務経歴書も1枚ではおさまりません。どんなにポジティブな転職理由を並べても辻褄があわず、転職もそろそろ限界だと思っていました。ちょうどそのころ、気晴らしに参加したイベントで自分の居場所を見つけます。
当時、Facebookで素人が集まるイベントが流行っていました。私はふらりとある読書会に立ち寄りました。
それが、好きな本を持ち寄った人がそれぞれ、面白かったところをプレゼンして、オーディエンスが「読みたくなった本をプレゼンした人」に投票するという「ビブリオバトル」との出会いでした。そこで、なんの気なしにプレゼンターとして参加します。
当時の私は、新しい会社で抜擢されて新規事業を立ち上げたもののうまくいかず、会社では誰も私の話聞いてくれないという状況でした。
それが、読書会に参加しただけでじっと話を聞いてくれるひとがたくさんいたのです。
人に遮られずに5分間話を聞いてもらえたのが、実に半年ぶりでした(笑)あまりに楽しくて嬉しくて、主催の人に長文のお礼メールを送ったら「一緒に主催しませんか?」と誘われます。
二つ返事で「喜んで!」と主催メンバーに参画します。
いつものパターン…?には、ならなかった
はじめての「お金も権威もなしで人を動かした経験」
これまでの人生は、すぐにその場の権力者に気に入られてある種のポジションをもらう、というのは私のパターンでした。
いつも、転職先で社長には気に入られるけれど同僚や後輩からは嫌われてきました。
飛び入り参加の読書会で、いきなり運営チームに入れてもらった。急な展開に戸惑いつつ参画し、手当たり次第にやったら良さそうなことを進めてゆきました。
どのくらい勝手にかと言うと、独断でコミュニティのパンフレットと名刺を作り、数百部印刷してきて「これを配ろう!」というくらいの勝手さです。
いつもならここで「勝手にそんなにやられても・・」と周りから嫌われはじめるのですが、そのコミュニティのリーダーは私が暴走して勝手に物事を進めるのを、影でいさめながらも全体と調和するように進行してくれました。
おかげで、私がいづらくなることも、他の誰かの才能が阻害されることもなく、順当に運営を継続し、そのコミュニティはあっという間に人気コミュニティとなり、毎月100人が集まる大きな読書会になったのです。
当時31歳。時給816円の頃でした。
少し前までの私なら、劣等感で何もチャレンジができないような状態です。だって手伝ってくれる人に払えるお金も、人にいうことを聞かせる肩書きもありません。
でも、私は、そのとき生まれて初めて権力でもお金でもない状況で、人を動かすことができて、仲間と呼べる人たちができました。
(主催していたイベントの様子)
なんかもう、骨の髄まで「金と権力じゃなかったんか〜〜〜」と染みた経験でした。
と…友達ができたーーーーー!!(涙)人生で初めての成功体験
コミュニティに出会って、生まれて初めて友達が、仲間ができました。
これをキッカケに、私は初めて、自分が人の役に立って充実感を感じながら、周囲と調和してうまくいく役割や人との繋がりかたを掴みました。
思えば・・・小学3年生の時にかなこちゃんという人気者女子から「私と友達になりたかったらプレゼント持ってきて」と言われてから「友達になるには金品が必要」と学び、大人になっても金品や肩書きや権力を求めて走り続けてきました。ことごとく失敗してきたけど、それは金品の多寡ではなかったのですね。
そのわたしが、はじめて金品ではない
「やりがい」
「楽しさ」
「チャレンジする経験」
こういった無形の価値提供で人と繋がりを作った最初の成功体験でした。
それまで、お金を払って権力で動かしても、誰もついてこなかったばかりだったんです。私はこの、無形のインセンティブ(やりがいや共感)で、素晴らしい協力や仲間が出来たことに雷に打たれたような衝撃を受けます。
こんな世界があったのか…全く知らなかったこんな世界。
無機質な金と権力で人を動かす冷たい世界から、やり甲斐や思いやりで繋がり感情で動く温かく熱い世界へ
住んでいる世界を引っ越そうと決意します。
二度と冷たい世界に戻りたくない
そう固く決意しました。それと同時に、30年間冷たい世界で暮らしてこごえてきたので、偶然の成功では満足できません。
これから一生こっち側の暖かい世界で生きようと思いました。
こうして私は「暖かい世界を生み出す再現性」を試すために次々といろいろなコミュニティを立ち上げて、たくさんの実験をしました。
「本当に、お金も肩書きもなくても人は動いてくれるのだろうか」半分信じている、信じたい、願うような気持ちでたくさんの実験をしました。
ある時は、貯金ゼロのまま不動産屋に申し込み、契約金100万円をかき集めて恵比寿に家賃20万のマンション借りました。そこで、共同オーナー制の会員制のイベントスペースをオープン。
そもそも当時の給料が手取りで20数万円で与信が通るはずがありませんでしたが、ビジョンを語ることで与信力の高い友達に契約をしてもらい、名義を借りることができました。
契約金の100万円も全く手元にありませんでしたが、1週間で契約者と会員を集めて支払いました。半年分前払いして!とお願いしてお金を集めました。笑
またある時は、一式揃えると100万以上する着物に憧れて、その着物を着て友人の結婚式に参加したいが為に表参道の高級呉服屋さんの着物のコミュニティを作って人を集めたりしました。
無料でその着物を貸してもらい結婚式に参加したり…イベントの司会をするときに着付けをしてもらったりしました。広告塔になることでこちらも無料でやってもらいました。(自分のもののように着ていますが、すべての着物は私の所有物ではありません)
とにかく「お金を使わずにどれだけのことが実現できるんだろうか」というテーマでやり尽くしました。
私が自分と人を信頼するためのリハビリとしてお金や地位、肩書きを使わず(まぁ実際は、お金も権力もありませんでした)目の前の人のニーズ無形のインセンティブに向き合った4年間でした。
2016年に会社を設立して、独立する直前には日本橋の都心のオフィス(20坪くらい)を2年間も無償で貸してもらうことになり、お金じゃないものを交換し続けた結果、お金と交換しやすい資産を手に入れた瞬間でした。
そして友達に出資を受けて会社設立ののち、会社を退職して会員制スペースの運営とコミュニティ支援という形で独立をしました。
この、私の30年来のリハビリと実験の末に再現性を法則化にしたのがコミュニティ運営のノウハウでした。
無形のインセンティブで人が集まり、何かを成し遂げる経験をする。その経験をするための、共感して売れる人の集め方やコミュニケーションスキル、企画運営などの一連の流れを、当時流行りはじめていた「オンラインサロン」という言葉で表現をするのが良さそうだ、とアドバイスをもらって私の仕事の内容が決まりました。
オンラインサロンブームにも乗っかって、引き合いをたくさんいただくことができて
コミュニティを作る、共感してくれる人を集める、継続して運営する
この流れが再現性のあるものとして、私の会社に蓄積されていきました。
お金をガソリンにして動く会社組織では、この無形のインセンティブよりも、お金や地位といった有形インセンティブが目立ってしまい、自分の無形のインセンティブ(やりたいこと・気持ち)も人の無形のインセンティブも見えづらくなります。
営利団体の会社とは離れて、任意で作った趣味のコミュニティは、見えづらいものを見るための絶好の練習場でした。
ここまで実に30年間、小学生の時に「友達になるならプレゼントを」というかなこちゃんの呪い(笑)を解いて、人を信じるためのリハビリのようでした。
そしてようやく、私は
人はお金や肩書きがなくても
友達になれるし、力を貸してくれる
と信じられるようになりました。
会社員をしながら、たくさんのチャレンジを仲間としてきたことで、
「こんな素晴らしいコミュニティ活用法を伝えることを一生の仕事にしたい」
そう思うようになした。
ただ、ひとりでは怖くて決断できなかったのです。でも、ここで後押ししてくれた人が現れました。
31歳まで、友達もおらず、職場でも異端児・お荷物扱いをされてきた自分に初めて友達ができて、その友人のふたりが一緒に会社作ろう、と言ってくれたのです。
他の2人は、他の会社のマネージャーや役員だったので代表は私がすることになります。
お金と地位を追いかけていた時にはお金は全く手に入らなかったのに、お金以外のものを軸にして動いたことで、結果的に私に100万円単位のお金を出資金として振り込んでくれる人が現れたんです。
「本当に何度も、これは現実だろうか」と目をこすっていたのですが、登記の手続きの中で2人からとても軽やかに
「振り込み完了!」
というメッセージがきた文字を見た時には涙が止まりませんでした。
友達が100万円振り込んでくれた…
感動で涙した起業と第二の人生スタート
信頼してくれた友達の思いを胸に、独立しました。
今度は私が
自分から人を信頼して
自分の労力やお金をかけて
たとえ一時的にお金を失ってでも、じぶんから人を信じて
一生続けたいこと、やりたいことに没頭して生きていこう。
目に見えない無形のインセンティブと、目に見えるお金などの有形のインセンティブ
この2つを行き来しながら、どのように無理なくそれを接続しながら、この現世を生きていくのか、冷たい世界で凍えている人に、温かい世界をチラ見せして、引っ越したい人には移住のお手伝いをしよう。
そう思っています。
34歳にして、私は自分が本当にやりたいと思えることに出会い、残り全ての時間と情熱をかけると決意をして第二の人生を歩み始めました。
結局、私の人生の鍵だったのが「信じる力」でした
ここまでお読み頂き、本当にありがとうございます。いや、まだ続くんですけど(笑)
これが私が「信じることが結局全てだった」と言うことに行き着くまでのストーリです。
大切なのはお金や権力じゃなくても、まずじぶんを信じて人を信じる力。そうすれば、人は私に力を貸してくれるという信じる力だったんですよね。
自分も人も信じられなかったときは
- 学生時代に友達ゼロ
- 転職しても3ヶ月で人間関係に亀裂
- 頼りになると思った男性はヒモニート
- 毎年転職して30歳で時給816円
- 彼氏にまで借金して家もない(転がり込み同棲)
どうしてこんなに人生難しいんだろう、と感じる転落人生だったのです。
でも、この経験があったお陰で今の仕事に情熱を持ち、きっと一生続けるだろうなという確信を持てています。
- 学生時代に友達ゼロ
友達がいなかったからこそ、コミュニティにとけ込めない辛さがありありと分かります。ずっと中心を歩いてきた人生だと、今の仕事をして「すべての人が居場所を感じられる世界を」とは思わなかったでしょう。このビジョンがあるお陰で、たくさんの人と共通ゴールを描けます。
- どこに転職しても、3ヶ月で人間関係に亀裂
人を動かすには金と権力。この仮説が間違っていることを、実に6回も検証したことになります。うまく行かなすぎてちょっと笑えるくらいです。それ以外のものを見ることができるようになった、という自信がついた。
- 夢が大きくて頼りになると思った男性はヒモニートで養う
共依存ってこういうことか・・・という学びに(学びにするしかない・笑)。誰しもこういうパターンに陥る可能性があるな、と思った。そして養うのが嫌になった時に夜逃げ同然で引っ越したので、そういう逃亡スキルもに身につきました。こんな関係になっても大丈夫、変えたいと思えば変えられるという自己信頼に。
- 活躍できる場を探して、毎年転職した挙句に30歳で時給816円
生活は困窮を極めました。でも、この人生で最高にお金のない最低の時期に、コミュニティ運営がうまく行ったことで「人はお金と権力だけで動くわけじゃない」という学びを骨の髄まで刻み込めました。本当に髄まで。笑
- 彼氏にまで借金して家もない(転がり込み同棲)
プライドも何もない状態で、もう笑うしかない状況だったんですけど、これでどうなっても生きていけるかも、ということがわかりました。自分一人が生き延びるための最低コストの底を知りました。
自分のことを信じた結果、いまこの瞬間の生き方が変わった
同じ状況でも、どう行動するかが180度変わって、生まれる会話、作られる人間関係、やってくるチャンスが変わり・・・ドミノ倒しのように人生が変わっていきました。
「どうせお金と権力でしか人は動かない」
こうした歪んだ不信感で世界を見ていた時は、お金や権力がない時には(ほとんどの時期がそうでしたけど)、人とちゃんと向き合おうとしてきませんでした。
「どうせいまは何をやってもうまくいかないから」
と日常を蔑ろに生きる言い訳にしていたんです。なんと30年も。
それが、30歳家なし、借金&時給816円の人生の底だった時に、コミュニティに出会ったことで、人を動かすのは、お金や権力や即物的なメリットだけではないのかもしれないそう信じる力が生まれたのです。
世界観が変わった瞬間でした。
この世界観があるせいで、日常を蔑ろに生きることができなくなりました。すべての瞬間に、何も持たない私でも、人を動かすことができるチャンスがある。
これを自分で発見し、証明してしまったのだから。
「何も持たない時でも、ビジョンを持つことで人を動かすことができる」これを実感した瞬間から、世界の見え方と自分の振る舞いが一変してゆきました。
パターンから外れるという挑戦が、私の信じる力を強化してくれる
とはいえ、独立してからも「信じる力」を試されることはたくさんあります。
例えば、
- どうせ受講生は、簡単にできる「答え」を求めているんだ
- こんなに長い文章を書いても、集中力がなくて最後まで読んでくれない
- みんな売上が上がることが一番なんでしょう?
独立当初は、売上を上げて生活をしていくのにいっぱいいっぱいで
「どうせ、みんなお金が欲しくて、すぐ役立つノウハウを期待をしてるんでしょ」
という、ある種の諦めや決めつけがあって、自分にとってのベストを探そうとしませんでした。
他の人はこうしているから、というパターンを踏襲することで考えるのを放棄していた面があります。
これを、独立5年目にしてやっと
「もっとより良いものにできるんじゃないか」
「私がまだ発見していない可能性があるんじゃないか」
こうした可能性を信じて、一歩を踏み出すことができてきました。
“ありきたりな関係性”の外にでれば出るほど、自己信頼と他者信頼が高まる
2021年になった今の私は、研修講師という「教える」仕事をしながら「もう教えられません、限界です」と泣き言を言ったり、
著者という「私が実践した答えを書いて出版する」という立場から、「読者と一緒に作る」というももこ編集室を作ったり、
お金を払って労働してもらうという「労役関係」なのに、働く人からお金をもらったり、いつも指示を出してその通りに実行しているスタッフさんに30万円を払って「コンサルをしてみて」という実験をしてみたり、そんな、「関係性を逆方向にしてみる」という実験をしています。
この結果、立ち去ってゆくお客さんがいたら悲しいかもしれないけど、そんな私をみせたらどうなるのかを知りたい、という気持ちの方が大きい。
あなたの答えを書いて出版してよ!という人がいるかもしれないけど、ももこ編集室では逆に「知りたいことから書いてみる」という実験をする。
この出版のプロセスは必ずしも成功しないかもしれないけど、どんな想定外が起こるんだろう、とワクワクしている。
働く人からお金をもらって編集を手伝ってもらっているけど、もしも途中で「搾取だ!」なんて暴動が起きたら、それも面白いな、って楽しみなんですよ。
30万払ったコンサルが、やっぱり私のスキルの方が高いから、全く機能しなかったとしても(笑)この試行錯誤の体験がしてみたいんです。
こんな風に、新しい関係性を作って、自分をカオスの中に放り込むことができることが、私の「信じる」力をより強化してくれるように思うんです。変なことしてるなぁって思うけど、それが楽しくてやってみたいからしょうがない。
今年に入ってから、売上数字というものにちっとも魅力を感じなくなってしまったんです。
「こういう感じが欲しいんでしょ」という無言の期待に応える活動に寿命を使うことにほとほと飽き飽きしてしまって。
だから、「出版コンサル」って売り出したらもっとお金は儲かるかもしれないんだけど、1万円払って「私の出版を応援してくれる人いませんか?」ってももこ編集室を立ち上げてみました。
ただの生産マシーンとしての執筆は、苦しかったんです。
そしたら、そんな無心の実験が面白いと言っていただけて、1100万部を世に出した元編集者・現ビジネスプロデューサーの長倉顕太さんが参画してくださることに。。また別の記事で紹介しますが、私が大学時代から1000回は聞いた音声教材もプロデュースされていた方なんですよ。
長倉さんとの化学変化をもっとみんなにも見せたいから、もも編の「楽屋裏に入る権利」を募集しようと思っています。
稼働できないから参加できなかった!という声が多かったので「働かないおじさん枠」笑
スポンサー枠の「あしながおじさん枠」もありますよ。ぜひ後者を選んで欲しい。(嘘、どっちでもいいです)
もちろん女性も大歓迎です。
未来への展望
こうした活動を通して、わたしは
「すべての人が居場所を感じられる社会をつくる」
というビジョンを実現したいと思っています。
今の社会システム、会社という営利団体での「お金」「生産性」というモノサシでは光の当たらない人がいる。そこで評価されないからといって価値がないなんてとんでもない。
そういう人が
人生を変えるキッカケを提供できる
「コミュニティ」の概念や活用方法
を広めてゆきます。
でも、実は私、たくさんの人と交流するのは苦手なのです。笑
だから私が作るコミュニティではなく、私の方法を使って、たくさんの人がそれぞれの居場所を作ることに貢献したいと思っています。
どんな人も、誰かを照らす力を持って生まれています。
一隅を照らす人
一隅を照らす人がコミュニティという方法を得て、例えば1万人の人が小さくても照らす場所を作ったとしたら、1万ヶ所もの誰かが一歩を踏み出す場所が生まれます。
小さくても、自分や誰かが輝く居場所がたくさん生まれたらいいな
でも、こうした志を掲げる私自身もいつもうまくいっているわけではありません。
昨年などは、教えることに挫折し、絶望して悩んでいました。
そこから、現在は「教えない」方法を模索してクラウドファンディングをして、やっと半年かけた制作物が完成し、2021年6月には教えないスタイルのワークブックを発売します。
常に悩みや試行錯誤は尽きないのですが、
私がビジョンに向かって一生懸命生きることを全力で発信して、自分と同じような日常を生きている普通の人の背中を押せたらと思っています。
これからの試行錯誤も全て、公開していく予定です。
これを見て、私とは一生会話をしなくても一歩を踏み出した人がいたら嬉しいし、私のプロジェクトに興味のある人が一緒にやろう、と言ってくれたりすることも、楽しみにしながら生きています。
最後に
本当に長い文章を、最後まで読んでくれてありがとうございました。
私にとって「信じる」ということのインパクトは凄まじく、今後の人生でも、自分と他者を含めた世界を信じることでどんどん新しい挑戦をしていけると思っています。
この文章を最後まで読んでくれる人が、きっといるだろうと信じることで1ヶ月かけてこのプロフィールを完成させることができました。
本当に、ありがとうございます。
あなたの人生に必要なラスト1ピースが何なのかは、私にはわからないけれど、なにかのヒントになっていたら幸いです。
最後に、ついに完成したワークブックを紹介させてください。
あなたにぴったりのコミュニティ運営が見えてくるコミュニティワークブック
これまで約3000人をコンサルする中で、教えることの限界を感じ行き着いたのが、この「教えないスタイルのワークブック」です。
クラウドファンディングで118人の方が購入した待望の1冊がついに完成しました!
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長々とした文章を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この文章が、あなたがあなたの可能性を「信じる」一助になれば嬉しいです。